韓国ドラマ邦題激ダサ問題について

なんども自分の記事内で言及しているが、邦題がなぜかよくわからない方向に走って行ってしまう現象を私は「邦題激ダサ問題」と呼称している。

なぜ韓国ドラマ始め洋画等々は激ダサ邦題をつけてしまうのか・・・

このままアマゾンの奥地に向かってしまいたいところだがおおかた海外の作品は市場が小さい、興行収入が少ないとかそう行った理由なのだろう。とはいえ許し難いことであるが。

 

なぜそう激ダサ邦題がついてしまうのか、それについては詳しい人物も聞き込みもできないのでとりあえずいち消費者の心理、なぜ激ダサ邦題が許し難いのかについて考察していこうと思う。

 

【なぜ許し難いのか】

 

①ナメられてる気がする

 

単純に「わかりやすい」邦題、ナメられてる気がする。「わかりやすい」邦題じゃないわからないだろ、こんなの、という感じがしてとても不快である。

確かに、市場を広げたい、収入を増やしたい、だからわかりやすくして裾野を広げようという発想自体はわからなくもない。

ただわかりやすさから超越しすぎて逆にダサいし、むしろその「わかりやすさ」に、「邦題をつけた人」の主観が入ってしまうから余計そう思う。

日本は日本語が公用語であるから訳されたからには周りへの「わかりやすさ」のためにその激ダサ邦題を使わなければいけないのにそんな邦題のつけ手の主観が混じった邦題だの使いたくないのだ。

その作品が日本ではそう呼ばれることになってそれは公開されて何十年、何百年と続くのにそれがわかっていなくて目先の「わかりやすさ」や利益にとらわれすぎた結果逆に人を惹きつけ難い題名になっているような気がする。

それは元の作品を作った作り手へのリスペクトが欠けているとさえ感じる。

 

 

 

②作品へのリスペクトが欠けていると感じる

 

前項でも述べた通りにリスペクトが欠けていると感じる。

まず邦題、そして韓国ドラマあるあるの元はシンプルでシックなのに日本のサムネイルはピンク〜キラキラ〜なフォント、表紙になっている問題。

韓国の制作側が熟考の上、その作品に最適で、良さを伝えられると思ったから元のシンプルでシックなものにしたはずなのにそれを必要以上にキラキラ〜脳内お花畑〜的な表紙にしてしまうのか。

これもそういうのが好きなんだろ、といったナメられているような態度を感じるし元の表紙がよく考えられて作られていることは自明なのにそれを改悪とも呼べる改変をするのはリスペクトが欠けているとしか思えない。

 

 

 

主に以上の二点が許し難い点であると考える。

しかしその点でもNetflixは良くできていると私は思っていて、ドラマの邦題は大抵が原題の直訳であることが多くほとんど無駄な副題をつけたりしない。

そこにただ、韓国ドラマをただのドラマとして、印象を操作せずただそこにあるあり方がとても好ましい。

『愛の不時着』もNetflixでなければきっと「〜国境をこえて舞い降りた彼女〜」だとか何だとか要らん副題がついていたであろうと思うし、何なら『愛の不時着』さえ翻訳されていないかもしれない。

この際ぜひ翻訳をしている会社はNetflixでは「面白いから」「面白さが広まったから」韓国ドラマが流行った、という事実を受け止めて「わかりやすさ」に走った結果の邦題激ダサ問題からの脱却を目指して欲しいものである。

いち消費者として強くそう思う。